システム面
オートモード継続機能無し
ボイスカット有無
ショートカットキー有り
ウィンドウ透過率変更可能
BGV無し
Hシーン内訳
心鈴
愛撫、手マン、対面騎乗位(破瓜) (浴衣、全裸・主人公部屋)
フェラ、正常位 (制服)
パイズリフェラ、オナニー、後背位 (浴衣、全裸)
ふたなり、手コキ (制服・美術室)
真琴
手コキ (私服・境内)
女教師に隠れながら教卓下でパイズリ (私服・美術室)
授乳手コキ、対面騎乗位 (私服、全裸・主人公部屋)
玉舐め、フェラ、くぱぁ、正常位 (私服)
野球拳、オナニー、くぱぁ、クンニ、後背位 (私服、全裸)
藍
愛撫、対面座位(破瓜) (制服、全裸・宿舎)
手マン、セルフくぱぁ、背面立位、後背位、背面駅弁 (制服、全裸・控室)
里奈×優美
(百合)授乳手マン、Wクンニ (私服)
感想
Ⅰ La gazza ladra
僕がサクラノ刻で期待していたものの一つに、”すかぢ氏が描く鳥谷真琴”がありました。というのもサクラノ詩の鳥谷真琴ルートはすかぢ氏とは違う方が書いており、僕はすかぢ氏が書く鳥谷真琴の心情というものに非常に興味があったためです。
まさか中村麗華をここで掘り下げてくるとは思いませんでした。しかもこれが面白い。サクラノ詩では中村家はただの敵とだけしか描かれておらず、ただ権力に胡坐をかいているだけの没落家、といった印象しか受けませんでした。キャラクターがそれぞれの異なる芸術への姿勢を描いた中、ただの敵とだけしか描かれなかった中村家は物語においても少し浮いた立ち位置でした。有り体に言えば小物感が強かったのです。
それがこの章のおかげで、少なくとも中村麗華はサクラノ刻で生きているキャラクターになったなと思いました。なによりサクラノ詩で中村麗華に対して感じた事は、あくまで彼女の一面を見ていたに過ぎないことに気づきました。決して彼女のことを好きになることはないですが、簡単に嫌いと決めつけてしまうのは少し違うなと思いました。
麗華「とにかく、あなたは新しい美を作りなさい。その美に言葉を添えるのは私なのだから――」
「だって……あれは本物なのだもの。私にとっては、どんなものよりも本物なんだもの……」
「それが偽物だったら……あの言葉まで偽物になってしまう……」
非常に印象深い台詞でした。サクラノ詩の真琴ルートで麗華がなぜあそこまで花瓶に固執していたのか、その奥にある心情が窺えます。
僕がサクラノ詩で思ったことは、芸術に偽物か本物かなどどうでもよく、彼女らの主張はあくまで芸術家のエゴでしかないということです。
中村麗華と長山香奈は非常に似ています。2人とも本物かどうかが分かる目を持っており、彼女らの違いは価値あるものを産み出そうとする作家かあくまで批評家かのみです。
そんな中村麗華の芸術に対する考え方は、冷徹で正しいと思いました。麗華は只の一般人がする芸術の捉え方を認めています。只の一般人には絵の良し悪しは表層の部分しか分からず、純粋な美よりもそれに付随するストーリーに酔います。彼女は、自分の力での美のみで作品を本物にするのは傲慢だと言います。故にその美を一般人へと通訳する者、新しい美に言葉を添える者が必要だと言います。これは非常に穿った見方だと思いました。
サクラノ詩では、長山香奈は本物が分かる目は生きていく中で苦痛であると言いました。サクラノ詩で中村麗華に感じた感情・彼女の一面しか捉えていなかったそれは、長山香奈の言う生きづらさをまさに体現しているように感じました。
Ⅲ-Ⅰ Der Dichter spricht
心鈴が非常に可愛かったです。ギャップ萌えの一言に尽きると思います。ロリで巨乳・寡黙だけど甘えっ子。好きです。
これまでは草薙直哉と異なる芸術家の話でしたが、ここでは本間心鈴という草薙直哉に似た芸術家に焦点が当たります。故に彼らの主張は非常に強い説得力があるように感じました。ここでは天才がけして手の届かない位置にいるわけではない。凡人が思う天才に対して、天才がそれに対して弁明をしています。天才は、天才と凡人にそこまで差があるわけではないと言います。
心鈴「大半の人間が想像出来ないでしょう。桁違いの才能には、必ず桁違いの努力が潜んでいる事を」
圧倒的天才という位置づけで描かれてきた本間心鈴の、その実力に裏打ちされた日々の在り方が描かれていました。それは天才を少し身近に感じさせます。天才を才能の一言で済ますなという、彼らの叫びを感じました。
Ⅲ-Ⅱ kibou
1章の答え合わせでした。中村麗華について1章で僕の中では理解できたので今さら目新しいものは無かったです。
僕が発売前に期待していたすかぢ氏が描く真琴、についてはあまり満足は出来ませんでした。意図的だとは思いますが、真琴が蚊帳の外すぎました。詩と刻での真琴は、それぞれ挑戦と諦観だと思いますが、詩のときの真琴の方が好きです。刻での真琴は学生時代と違い芸術と正面から向き合う事を辞めています。とはいっても、学生時代に天才を直視しすぎた真琴の今の姿は致し方ないとも思います。
真琴「人には、それぞれ定められた限界がある。だから、いろいろな生き方を模索できる」
「みんなが漫画に出てくるヒーローみたいな生き方してたら、世の中はたぶん上手く回らない」
「限界がみえるから、人はいろいろな生き方が出来るの」
この作品における芸術への立ち位置は三者三様ですが、真琴の立ち位置が一番プレイヤーと近いと思っています。真琴がサクラノ刻の中の事件に直接的に関わる場面は少なく、サクラノ刻はあくまで一定の才能を持った芸術家達の物語だということが分かります。
もし芸術の神様がいるとしたらそれは真琴には一瞥もしていないのですが、僕にはサクラノ刻でのそんな真琴の扱われ方が(好き嫌いは置いておくとしても)妥当だなと思いました。
真琴「私はいつでも蚊帳の外、私が知らない場所で何かが起きて、そして誰かが活躍して、事件が解決されていく」
「でもさ。この年齢になると、そういう生き方も悪く無いと思うわ」
刻では真琴の成長を感じることができました。真琴自身が音頭をとり天才を再び羽ばたかせようとして叶わなかった詩と違い、直接的に関与せずとも間接的に関わり鳥谷静流という天才を再び羽ばたかせることに成功した刻。そしてそこには学生時代からの強みであったけしてブレない心の強さがありました。天才達の物語において真琴のそれはある種残酷だと思いましたが、そこに垣間見える真琴という一人の人間の強さがとても良かったです。
Ⅳ Mon panache!
非常に面白かったです。Ⅳ章は夏目圭という一人の芸術家の人生が描かれていました。
詩の時から抱いていた違和感に、夏目圭は本当に天才なのかというものがありました。圧倒的天才である草薙直哉をひたすら追いかける夏目圭。ムーア展では命を削って絵を描いていました。そこには天才である草薙直哉と草薙健一郎を羨望する姿がありました。サクラノシリーズで語られる天才達が持つ突出した才能。彼らと比較すると夏目圭はここでいう”天才”ではないように感じていました。
”天才”というテーマを扱う作品には往々にして”努力”が絡んできます。凡人が天才に打ち勝つには天才以上に努力するしかない。しかし天才がそれ以上に努力していたらどうなるのか。この問題は非常にセンシティブだと思います。
直哉「けど絵画そのものから、画家の生を感じ、絵画によって魂が共鳴するのであれば、絵画そのものの美に感動するよりも素晴らしいと思います」
「技術の筆では人の心を打つ事は出来ない。魂の筆でこそ人の心を打つ事が出来るのだと思う」
サクラノ刻では天才を絶対的なものではなく、また才能を不安定なものとして扱っている節があります。芸術で人を感動させるのはなにも天才のみではないと。
ただ言える事はこの娘は桁違いの天才なのだ。
それでも、俺は、彼女よりも遥か先にいる。
努力だけじゃ、到達出来ない地点に俺はいる。
才能だけじゃ、到達出来ない地点に俺はいる。
天才や凡人など芸術の前では些末な問題に過ぎません。サクラノ刻で最も芸術家だったのは夏目圭だと思います。夏目圭が天才か否かについては全くの見当違いでした。
Ⅳ章のサブタイトルであるMon Panache! 捨てる芸術家である彼の手元に最後まで残っていたもの。けして奪われないもの。あの世に持っていったもの。それは器に詰まった満杯の幸福でした。ひたすら絵を書き続け、ひたすら奔り続けただけの彼の人生が幸福だったことが何よりも感動しました。
彼の人生はひたすら走り続けるものでした。最初は草薙直哉に追いつきたいという動機だったものが、最後は草薙直哉を引っ張り上げ再び走らせるために走り続けました。サクラノ刻のⅣ章をプレイし夏目圭の心の内・動機が明かされることで、サクラノ詩で彼が必死に絵を描き続けた理由も察することができ胸が詰まりました。
Ⅴ D'ou venons-nous? Que sommes-nous? On allons-nous?
正直に言うと読了後は頭を抱えてしまいました。よもや最後の最後で伝奇に頼るとは思いもしなかったからです。
そもそも即興ペイント自体が個人的には微妙でした。芸術作品を対決する展開自体が受け入れ難く、また僕はこの対決方法は芸術に対してライター自体が逃げたと思っています。おそらくこうでもしないと長山香奈、そしてもしかしたら草薙直哉自身も世界で活躍する天才芸術家には勝てないとすかぢ氏は思ったからではないでしょうか。では、このような批判が出ると分かっている即興ペイント勝負を用いてまですかぢ氏が伝えたかったものはなんだったのか。
直哉「俺の実力では宮崎みすゞに勝てない」
「それは正しいと思います」
「ですが、技量の差で魂を響かせる事は出来ない」
「技術では届きませんよ」
「血涙が出るほどの訓練の末に習得した技法」
「ですが、技法では決して届かない場所があるんですよ」
芸術の前に天才も凡人も無い。ただ魂を震わせた作品のみに価値があるように感じます。サクラノ刻では夏目圭のような芸術家を賛同していることが分かります。
これについては概ねその通りだと思いますが、その思想を裏打ちする草薙直哉や長山香奈の勝負の勝ち方については素直に納得することは出来ません。作中でも言及されていますが、これは即興ペイントでしか成り立たず通常の絵画展では通用しません。納得する形にするにはⅣ章で描いた夏目圭みたくしなければならずそれは難しい。だから即興ペイントに頼ったのでしょう。しかし歯に衣着せずに言うとここで行っていることは小手三寸です。
さて、僕がサクラノ刻で期待していたキャラクターに長山香奈がいます。僕はサクラノ詩で彼女は中途半端だと感じました。本物が分かる目を持つ分、才能がない芸術家として彼女は生きづらいだろうなと。彼女の思想は痛烈で、芸術をこれまでの立場のキャラクターとは異なる切り口で捉えました。
彼女も鳥谷真琴と同じで、どちらかというとマイナスのベクトルで詩に対する解を提示しているように感じました。
フリッドマン「天才は凡人の心を打つことはない」
「凡人の筆が故に、私の筆は大衆の心を打つ事が出来る」
「これは、あの女が本大会に出るにあたっての面談で言った台詞だ」
端的に言えば彼女は詩で馬鹿にしていた偽物も本物も分からない大衆に屈しています。個人的にこれは物足りなくて、大衆と戦って欲しかったという気持ちがあります。僕はサクラノ詩で彼女の思想は綺麗事であり負け犬の遠吠えにしか聞こえないと思いましたが、これを覆して欲しかった。
氷川里奈に関しては彼女はいったいなんの役目があったのか最後まで分かりませんでした。彼女と同じ立ち位置には御桜稟がいます。結局彼女は長山香奈の噛ませ犬以上には思えませんでした。
サクラノ刻で最も期待していたのは草薙直哉と御桜稟との勝負ですが、こちらは正直開いた口が塞がらなかったです。僕が思っていた展開と全く違いました。僕は2人の芸術論のぶつかり合いが見たかったからです。
僕の中で御桜稟は美の神だと認識していました。御桜稟にとっての美は不動のもの。一方草薙直哉にとっての美は流動のもの。サクラノ刻で最終的に語られるのはこれらだと思っていました。しかし蓋を開けてみると待っていたのはチープな展開でした。
直哉「あいつらは、たぶん誓ったんだと思う……」
「だから、氷川里奈はアリア・ホー・インクとして目覚める事が出来たし、長山香奈は俺と同等の力で戦う事が出来た……」
「すべては、俺を再び奔らせるための祈り」
「香奈はそれを神よりも強い想いと言った」
「それは正しいけど、少し違う」
「たぶん、あの二人は、多くの感情が詰まった伯奇の力を、たった一つのものに昇華しようとしたんだと思う」
「けど、そもそも、それが本来の意味で”描く”という事だよな」
キャラクターを通して哲学的に美を描くはずが、草薙直哉のための物語へと成り下がってしまいました。僕が求めていたものでは無かった。というのが正直な感想です。
そして夏目藍。正直に言うと彼女の存在は他のキャラクターと比較して薄く感じます。それはサクラノシリーズは芸術家たちの物語だからです。彼女は芸術家では無い。しかしだからこそ彼女の存在はサクラノ刻では欠かせない存在だとも思います。夏目圭は骨の髄まで芸術家でした。草薙直哉は彼とは違います。芸術家としての幸福。そして普遍的な幸福。夏目藍の夢は後者のそれです。
夏目藍もまた芸術家というすずめが留まる王子でした。彼女の存在が、サクラノ刻を芸術家の物語以上のものにしています。そしてそれが、サクラノ刻のテーマの要因を担っていると思いました。
サクラノ詩でも掴めなかった草薙直哉という芸術家については最後までよく分からないままでした。サクラノ刻でも彼に対するキャラクターとしてのブレを感じました。僕の中ではどうしても彼が過大評価されている気がしてなりません。未完の筆。それがしっくりきません。
櫻ノ詩ト刻
この章はまさにこれだと思いました。
依瑠「無敗の人生なんてないんだからさ。いつかはその強さは、強さ故に折れる事もあると思う」
即興ペイントに登場した5人の画家のエピローグでした。サクラノ詩では芸術は才能を持った人間が奏でるものでしたが、サクラノ刻ではそれを払拭しているように感じます。芸術に対して高尚に扱ってきたものを、普遍的な・身近なものへと昇華していました。そして芸術と芸術家の差異を明らかにしているように感じます。
サクラノ刻で最も芸術家であったのは夏目圭であり、そして4人の中では本間心鈴が最も芸術家をしています。逆に、草薙直哉に引き寄せられた彼女等は真の芸術家ではないような気もします。
総評
僕がサクラノ詩で最も強く感じたことは、彼らが言う芸術とはあくまで芸術家たちの話であり、ただ芸術を鑑賞する大衆の中の一人である僕にとって彼らの思想などただ芸術家のエゴだということです。芸術の価値というのは神のようなもので人間が決めることではないと考えています。僕たち大衆にとって芸術の価値はそれほど価値が無く、ただありのままを感じることくらいしか出来ません。芸術の価値はあくまで芸術家が決めた裁量に過ぎず、美という神のような存在は認めつつもそれの感じ方は人それぞれだというのが僕の考えです。
サクラノ刻は、芸術を神秘的な存在から俗的な存在に描いています。
坂本「絵画は血で描くだけじゃない。魂の欠片が芸術なわけじゃない。ある意味、愚鈍な姪の筆は、その事を教えてくれた」
「芸術とは、つまり、ただ祈りの様なものである。美しくあって欲しいという気持ちでしかない」
これまでの芸術論は前時代的なものだったように感じます。しかし、現代芸術においてそれは重い。たしかにこれまで述べてきた一筆に籠める魂の重みによる芸術の側面もありますがそれだけではない。芸術・絵画が一般的なものになり大衆も親しみやすくなった現代における芸術の新しい在り方を示しているように感じました。血で描く絵画しか人の魂を震わすことはできないのか。それは少なくとも現代においては否で、様々な芸術・それに対する様々な味わい方を提示しているような気がします。
ノノ未「才能に恵まれた画家だけが、人の心を打つわけじゃないんですよ。才能に恵まれない人間の作品だって、人を感動させる事があるんです」
ノノ未はサクラノ刻で最も重要な視点を持つキャラクターだと思いました。芸術を理解しつつ大衆への理解もある。サクラノ刻の全ては、この一言に集結するような気がしました。