システム面
オートモード継続機能無し
ボイスカット有無
ショートカットキー無し
ウィンドウ透過率変更可能
BGV無し
Hシーン内訳
真琴
キス、正常位(破瓜) (制服、全裸・真琴部屋)
手コキ、対面騎乗位 (メイド服・真琴部屋)
稟
手コキ、オナニー (制服・主人公部屋)
フェラ、オナニー、正常位(破瓜) (制服、全裸・稟部屋)
オナニー、パイズリフェラ、対面騎乗位 (メイド服・主人公宅)
背面立位 (全裸・稟部屋)
里奈
乳揉み、乳舐め、フェラ、正常位(破瓜) (制服・屋上)
乳揉み、乳舐め、パイズリフェラ、対面騎乗位 (私服、全裸・主人公宅)
手マン(優美)、オナニー、貝合わせ (制服、全裸・屋上)
雫
愛撫、正常位(破瓜) (制服、下着、全裸・主人公部屋)
フェラ、69、対面座位 (私服、全裸・主人公部屋)
フェラ、オナニー見せあい (私服・野外)
松葉崩し (全裸・玄関)
藍
フェラ、愛撫、正常位(破瓜) (制服、下着、全裸・主人公部屋)
感想
Ⅲ PicaPica
僕は読了後、素直につまらないと思いました。PicaPicaは真琴ルートですが、このルートの大半を占める麗華との出来事を見るのがとても退屈に感じたからです。真琴はムーア展に強い想いをかけているのに、どうして寄り道するんだと。もっと真剣に取り組まなくていいのか?
PicaPicaは真琴の全てを表していたと、今ではそう思います。ムーア展以外にも目が行ってしまうどうしようもない優しさ。裏を返せば芸術一つに真剣になれていないそれは、真琴を凡人たらしめる要因としてはこれ以上無く十分だと感じました。
真琴は果たして幸福だったのか。PicaPicaで重要な点はこの1点だと考えています。
PicaPicaでは、真琴を天才としてことごとく否定していました。
真琴「……私は、再現できるもの、量産できるものを世に出していきたい。そう望んでいる。あれは、その対極にあるもの……」
真琴にとっての芸術に対する考え方は再現性のあるものです。そして、技術的に再現できないものは失敗作だと考えています。真琴は昔アール・ヌーヴォー風の花瓶を4つ作っていますが、これは特殊な材料を使ったせいもあり再現できず、失敗作だと断言します。しかしその花瓶は世間的には非常に大きな評価を受けます。
真琴「草薙は、彫刻と絵画の鑑賞における最大の違いって何だと思う?」
「私は、触れることだと思っている」
「だから、パブリックアートとして人気もあり、実際に触れて楽しいポテロのブロンズはすごく好きだし、一つの理想形だと感じているわ」
「子どもが、それはなに? って無邪気に手をのばせるシンプルで優しい形」
真琴「ああ……そうね」
「だから、再確認したかったのかもね」
「ディティールについては、私が作ろうとしているものと大きくかけ離れて見えようとも、私がオブジェを作るのなら……」
「それは、気軽に手をのばして触れられるものとしてあって欲しい」
真琴の創作への動機には優しさが籠っています。どれも ”誰かのため" という動機があります。しかし作中で真琴のそれは芸術性とは遠いと名言しています。芸術家はエゴの塊であり、そのエゴこそが圧倒的な作品を生み出す原動力になると。
校長「圭の絵は、世界を見つめるまなざしそのものだ」
「そして、あの子の描くものは……堅実で誠実だ。今はまだ、思春期独特の切実さがかろうじて……あの子の絵を ”見られる" ものにしている」
「あの子の生み出すものは、芸術方面には向かないよ」
このように芸術面での真琴はことごとくが空回っています。
天才と凡才の直接的な比較として、真琴はムーア展以外のことにも奔走しますが、一方圭はずっとアトリエに籠り芸術と一対します。芸術に対する向き合い方の違いが、これでもかと様々な場面で様々な視点から対比されていました。
作中では真琴の芸術性は全て否定されました。真琴が持つ想像と願いと持てる力の全てを込めて作り上げた作品は、天才には届きませんでした。
真琴は愛以外を手に入れることは出来ませんでした。それでは、愛を手に入れた真琴はそれで幸福だったのでしょうか。
僕は、この結末を幸福だと思わなければいけないと思います。そうでないと、僕たちの今は幸福でなくなってしまうからです。
真琴は生まれたときから芸術に囲まれた生活を送っていました。真琴にとってこの生活は苦しいモノだったのではないのでしょうか。真琴の中にある優しさは、芸術面ではあまりに生きづらいと思います。
真琴「人が人を救うことって、できると思う?」
草薙「できるさ」
「もし、仮に、それ以外のもので救われたとしても、それは救いの形に似た呪いでしかない。あるいは最初から呪いそのものだ」
草薙の絵に救われた真琴にとって、それは呪いだったのかもしれません。真琴はその呪いを自らの凛々しさと優しさをもって決別しました。
たかが絵一枚で。
世界は確かに変わったのだ。
それがもし救いという名前で呼ばれるものでないのならば、
それは、まるで、
恋のようではないか。
芸術に限らずスポーツ等、ただひたすらに一芸を極める世界は、常人にとっては苦痛であると思います。言い方は悪いですが、普通の人とは違った思考を持つ人のみが生き残れる世界なのかもしれません。
例えば身近な例として部活動があります。全国大会に出場できるポテンシャルを持つ彼は、勉学を疎かにしてまでスポーツに取り組みスポーツ推薦で大学進学を決めました。そんな彼は今、そのスポーツとは全く関係の無い仕事に就いています。
一芸を突き詰めた先には何があるのか、度々僕は疑問に思います。彼にとってスポーツは呪いだったのではないでしょうか。
僕にとっての幸福はそこそこの国立大学を卒業しそこそこの大手企業に入社することだと思います。その平均より上の生活を送ることが、なによりも普遍的な幸せではないでしょうか?
真琴は僕たち側の、普通の人側の人種でした。そんな彼女にとって、芸術に魅せられる行為は呪い以外の何物でもありません。
PicaPicaでは、真琴にかかった呪いを解呪する内容とも言えます。憑き物がとれた真琴は、僕たちと同じただの人間です。呪いが恋へと昇華しました。芸術や天才、結果というものは手に入れることが出来ませんでしたが、愛は手に入れることができました。永い目で見たらきっと真琴は幸福で在ると思います。ここでの幸福とは普遍的なモノであり、僕たちが普段享受しているものです。
火釜で悪戦苦闘している真琴より、メイド服を着てケーキと珈琲を淹れる真琴の方が幸せそうに見えたのは僕だけでしょうか。
PicaPicaは非常に惜しいと思いました。真琴がもつ凛々しさと優しさ、背負う背景、天才との乖離。読了後に振り替えると、振り返れば振り返る程に面白かったです。
PicaPicaは言ってしまえば芸術に対する一般的な人間からの視点が描かれていたと思いました。だから納得しやすい。それだけに、この話の大半を占める麗華とのやりとりは微妙でした。
Ⅲ Olumpia
稟はえっちでとても可愛かったですが、お話としては面白く無かったです。設定の開示、といった印象を受けました。
Ⅲ ZPRESSEN
稟ルート同様、里奈は可愛かったですがお話としては面白く無かったです。大仰な演出をした割にはこじんまりと収まったなという印象です。
あと、Olympiaから徐々にオカルトチックな設定が出てきましたが、芸術を題材に扱う作品で伝奇を用いてもいいのかと疑問に思いました。芸術とはオカルトやリアル、様々なテーマを巧みな手腕で現実の世界に落とし込むものではないかと思うからです。そこに説得力は無いと思いました。
Ⅲ A Nice Derangement of Epitaphs
ほとんどが雫の回想で構成されていました。主人公に尽くそうとする献身的な態度が感情の起伏の乏しさと相まってとても可愛かったです。
ただ3週間で櫻七相図を完成させたり、空中に絵を描くといった内容は、少しきついなと思いました。リアリティに欠けるというか説得力に欠けるというか……。
読了後は贋作としての価値、芸術に対する価値の不安定さを強く感じました。僕は、草薙直哉が描きあげた櫻七相図が草薙健一郎の作品として扱われることに抵抗を感じます。
作中で贋作に対しては肯定的に捉えられています。
直哉「我々はみな、見抜かれてしまう出来の悪い贋作についてしか語れないということを知っておくべきだろう。出来のよい贋作はいまなお壁に掛けられているのだから」
明石「つまり、美術界は贋作によって支えられているという事か……。恐ろしい話じゃなぁ」
健一郎「そんな一学生が、贋作で世界を騙そうとしているのだろう?」
「Trompe le Monde」
「墓碑銘の素晴らしき混乱だ」
「意味の取り違いが、より素晴らしき意義を生み出す」
健一郎「だが、芸術に無駄なおしゃべりは必要ない」
「研ぎ澄まされた意義だけが浮き上がる」
「A Nice Derangement of Epitaphs」
「この作品はそう扱われるだろう……」
芸術の価値を測るのはなんなのでしょうか。僕の中で芸術の価値は絶対評価であり、芸術に対して真摯であるべきだと思いますが、サクラノ詩はそれを否定しているように感じました。芸術を評価する際の危うさ。そんなものを感じます。しかしそれを否定できないのも事実です。芸術の評価にはプラシーボ効果のようなものが働くのも分かるからです。芸術には数学のような明確な答えというものはありません。しかし僕はこれに納得することは出来ない。そう思いました。
Ⅳ What is mind? No matter. What is matter? Never mind.
前日譚です。特に言う事はありませんが、草薙の一族は一途であり草薙健一郎もそれに洩れないといいつつ、水菜以外にも紗希とも恋人だった時代があったのかよとは思いました。
Ⅴ The Happy Prince and Other Tales
この章から伝奇設定が無くなりました。そういった側面からは素直に読んでいて楽しかったです。偉そうに言うと求めていたものを書かれているなという印象でした。
どうしても強い印象を受けるのは後半ですが、そこで書かれていたのは著:すかぢによる哲学書でした。世界と美と芸術と人。数々の哲学者の考えを踏襲しつつも自分なりの考えが書かれていました。しかし、それどまりです。概念を人間的に表現したものが物語では無いのか。あくまでこれはただの哲学書であり、それならば別に物語を読む必要は無く哲学書を開けばよいのではないか。そう感じました。僕は長山加奈との物語のほうが実に人間の物語っぽくて好きでした。
香奈 「草薙くんは、自分が描いた作品に対してなんの責任も持たないのですか?」
この疑問はサクラノ詩で僕がずっと引っ掛かっていたものでした。贋作の芸術的価値についての深い問い掛けのように感じます。
香奈「本物が分かる目など、この世を生きていて苦痛でしかありません。他の連中みたいに、クソみたいなものにはしゃいでいる方がよっぽど幸せです」
「世の中の連中。全員幸せそうじゃないですか。何故だと思いますか? やつらには偽物も本物も分からないからです」
「やつらに分かるのは、他の大多数が喜んでいるかどうかだけ。空気を読む力だけ」
「でも、それが正しい。そんな奴らの方が、私よりずっと上等。そちらの方がよっぽどハッピーに生きられる」
彼女の立ち位置を簡潔に述べると”中途半端”でしょうか。本物が分かる分、彼女はとても生きづらいのでしょう。
香奈「それでも、価値の無い物を作り出す人間どもに、おもねる事なんて出来ない」
「だから、私は戦おうとする」
「けど、けどですね。私の戦いなど、いつも負けてばかりです……」
「価値が分かるなんて事は何の力でもないんです。価値を自ら作りださなければ、それになんら意味などない」
「自分で価値が作り出せない芸術家など、存在しないも同じです」
そんな彼女の葛藤が窺えます。
彼女はどこまでの芸術に対して真摯であり、そして無力でもあります。これらの彼女の台詞はどこか負け犬の遠吠えのように聞こえます。
香奈「いいえ、才能があれば、手軽にその場所まで届く。簡単にできるからこそ、簡単に捨ててしまえる」
「だって、その事に価値を感じないから」
「でも、才能が無い人間は違う。その場所に手が届かないからこそあきらめない」
「才能が無い人間は、その価値を簡単に捨てる事が出来ない」
「それがとても価値のある事、自分の人生を捧げるのにふさわしい事を知っている」
この台詞は非常に偏りがあります。長山香奈がこの台詞を言う事で、僕の中での長山香奈というキャラクターがある程度固まりました。どこまでも彼女を凡人たらしめており、やはり彼女は人間らしい。なぜなら彼女の思想には誤りも多く含まれているからです。自分一辺倒の思想。自らを肯定したいという強い意思が、思想に偏屈さをもたらしているようにも感じます。そういう意味では彼女はキャラクターらしくはないなとも思います。
香奈「天才の価値はね。大衆には分からないのよ。あいつらは、どこまで行ったって、周りの評価に流されて、何となくで自分の評価を決めているだけ」
「天才の価値は、才人にしか分からない」
「私みたいな、中途半端な才能、天才になりきれない、かといって凡人でもない、そういった人間にしか分からない」
また彼女はⅥ章で非常に痛々しくなります。彼女の芸術に対する一種の凛々しさは、時が経ち大人になることで拗れてしまったと思いました。そしてそれもまた凡人らしいなと。
後半の芸術論については上記の通りあまり興味はありません。しかしサクラノ刻への布石と考えると楽しみではあります。稟と直哉の芸術論には明確な違いがあるからです。この2つの対立が刻でのテーマとなってくるのかなと思いました。
Ⅵ 櫻の森の下を歩む
まずサブタイトルに非常に痺れてしまいました。Ⅵ章はサクラノ刻のプロローグ的立ち位置なのだと思います。サクラノ詩のサブタイトルは”櫻の森の上を舞う”ですが、これらの対比は上記の芸術論の違い・稟と直哉の対比、ひいては天才と凡人の対比とも繋がります。きっと僕がサクラノ詩で求めていたのは”これ”で、その欲はサクラノ刻で満たされるのでしょう。
Ⅵ章の雰囲気は櫻達の足跡を完成させたときの雰囲気に似ています。芸術に楽しさを乗せようとしていました。振り返るとサクラノ詩では、芸術に価値を求めているように感じます。顕著な例としてはムーア展です。作品に芸術的価値を求めているように感じました。
直哉「何で、俺が悔しそうな顔をする必要があるんだよ」
「あれが、何のために作られたか……。俺が、あの作品を誰のために完成させたか……」
「あれは他の誰かではない。遠くから誰かのために描いたものではない……。あれは、俺が、俺自身のために、作り上げた作品だ」
「だからこそ、もう俺が作者である必要は無い。俺の名前が残る必要は無い」
時間が経ち、子どもから大人へと成った直哉が抱く絵画ひいては芸術への価値観は、あの頃と変わったなぁというのが正直な感想です。またこれは、僕の贋作に対する疑問の一つの回答のようにも感じます。
直哉「何故ならば、絵画というものは、詩のようなものだからです」
「もし、君が、作品を目の前にして”重厚”だと思ったり、”高尚”そうだと思ったら、その芸術は死んでいる……」
「もし、君が、その作品を目の前にして、作品から息吹を感じたとしたら、その作品を生き返らせたのは、他ならぬ君だ。と」
「絵画というものは、ただそれだけでは、何でもない存在なのだと思います。それを見る人によって、絵画ははじめて生きるのです」
直哉が学生だった頃の美術部と違い、直哉が教師となった美術部には芸術的価値を求めるような雰囲気はありません。櫻の森の下を歩むとは凡人側の表現でしょう。
直哉「どんなに高く飛んでも、翼はいつかその力を失う」
サクラノ詩をプレイしても、やはり僕は芸術を志す彼らの気持ちは理解出来ませんでした。彼らの苦悩や不安定さ、いつか失われてしまうその翼。芸術家を志す理由といったものは最後まで理解出来ませんでした。芸術を志すことが幸福なのか。僕からしたら長山香奈が非難した彼らが最も幸福なのではないかと思いました。
しかし、この台詞をよもや草薙直哉が言うとは思いもしませんでした。いや、むしろ草薙直哉だからこそ言える台詞なのかもしれませんが……。草薙直哉というキャラクターを最後まで掴み切れなかったのは僕だけでしょうか。草薙直哉のキャラクターとしてのブレが、僕がサクラノ詩をプレイしていまいち腑に落ちない点なのかもしれません。
総評
僕は芸術の不安定さを強く感じました。サクラノ詩では様々な人の芸術に対する受け取り方の違い、それには製作者の意図とは異なる捉え方もされます。僕はこれに対しては櫻達の足跡を完成させたときの学生時代の草薙直哉と同じ考えですが、作中はそれを芸術家としては三流以下だと言います。
明石「腑に落ちないか? だとしたら、お前は芸術家としては三流以下だ」
「作品が何のために生まれたのか、何のために作られたのか……」
「我々が何のために作品を作るのか……それさえ見失わなければ問題無い……。そこに刻まれる名が、自分の名前では無いとしてもだ……」
振り返ってみても納得することは出来ませんでした。そもそもこんな不安定なものを正しく評価することは難しいとさえ思います。
稟「はい、聴衆が価値を持つのではありません。見るものが価値をつけるのではありません」
「美は、美として存在するが故に価値がある」
これは非常に独善的な解釈だと思いますが、ニュアンス自体は僕の思想と似ている気がします。芸術を人が評価することがそもそもナンセンスなのではないかと。
稟「草薙くんには神さまはいないの?」
直哉「その質問は意味がなさ過ぎるよ……」
稟「そうでしょうか?」
直哉「稟は、絵を描く事、美を作り成す事、その行為の背景そのものを”神”と言っているのだから」
ニュアンスは似ていますが僕と稟の差異はここです。凡人である僕にとってはナンセンスであるそれに彼女は触れています。それはいわば”神の所業”であり、ゆえの天才なのだと思います。しかし稟の考えは創作物ゆえに説得力のあるものであり、現実で稟のような人間はいないと思います。芸術の前に人間は果てしなく無力です。長山香奈がいう”偽物か本物かも分からないバカな連中”とは僕のことであり、そしてそんな僕から言わせてもらえば彼女の主張などただの一芸術家の独りよがりでありどうでもいいことだと切り捨てることが出来ます。
また作中、草薙直哉という芸術家に対してブレを感じました。彼を掴み切れないのがサクラノ詩で腑に落ちない点だと思います。天才だと思っていた彼は、御桜稟という圧倒的な天才の前では中途半端な存在となってしまいました。個人的には草薙直哉はムーア展でノミネートされるべきでは無かったと思います。
夏目圭・御桜稟・長山香奈・鳥谷真琴。彼らと比較して草薙直哉という芸術家は何なのか。彼がどのような芸術家なのか。最後までよく分かりませんでした。